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Culture

第7課:米の経済

1:主食糧である米だけは自給できる。

2:数千年前に熱帯アジアで栽培化されてたもので、日本へは中国南部から直接に、あるいは朝鮮半島南部を経由して、約三000年前につたえられた。

3:農耕の時代か弥生時代    

4:八世紀までには、北海道をのぞく全地方に、稲作が一応定着した。

5:北海道に稲作が入ったのは約一00年前のことだ。

6:北海道北部は北緯四五度にある世界に米作の北限地のひとつです。

7:米は日本人の主食として二000年以降以上利用されていることである。

8:米の生産性による人口支持力たかさがあげられる。

9:日本では、通貨としての性格もおびていた。

10:中世ごろからすでに貨幣経済にうつっていた。

11:稲作の振興のために基本的な対策はまず水利灌漑、河川の堤防工事、分水のための溝の造成工事。

12:農民側でも各種農具の改良、早稲、晩稲、寒地適応種の選抜のどの技術改新力をつづけられた。

13:日本人の米作の技術は明治以降移民によってアメリカ合衆国やブラジルなどに伝えられた。

第10課:鉄

1:鉄器は縄文時代のすえであらわれた。

2:青銅器の出現は弥生時代の初期

3:鉄は農具や武器に、青銅器は祭儀的品物の利用されている。

4:初期の青銅器製品は実用的で、でも日本製の青銅器は祭儀的性格がつよい。

5:銅剣は九州を中心とする西日本西部に、銅鐸は近畿を中心とする西日本東部に分布した。

6:青銅製の剣や鐸は古墳時代に突然すがらをけす。

7:銅鏡は古墳時代の副葬品としてつかわれて、近畿を中心とする全国的な分配ネットワークが形成されていた。

8:剣は鉄製となり、武器として一般化した。

9:鉄器は当初から実用的な品物にかぎられている。

10:日本の製鉄は「鍛造」の技術が卓越していた。

11:六世紀に鉄の原料は主として砂鉄であった。

12:鉄工業者は素材の砂鉄と燃料の薪炭を求めた

13:抗争と征服をおしすすめたのは大量の鉄製の武具である。

14:副葬品として大量のてつていや武器や武具が埋蔵されているのがあり、それらは近畿地方と瀬戸内海に集中している。

15:天皇は位につくにあったて、三種の神器とよばれる鏡、剣、玉のセットを継承する。これらは日本の先史の技術的進化のプロセスを反映するのとかんがえられた。

第14課:京都

1:京都の人口は約150万である。         

2:年間3800万人の外観光客がおとずれる。

3:京都に都がおかれたのは794年である。

4:平安京のプランは東西4。6キロメール、南北5.6キロメールの長方形で、北端中央部に宮殿をもち、幅85メートルの大路によって整然と小方形に区別されている。

5:この新しい都をつくる計画の条件は本来国がやるべき仕事に民間の資金と能力を導入する方法である。

6:新京は選地から遷都まで約一年という遠さでつくれた。

7:民間との合同計画であったため、平安京の建設は柔軟性があり実利的である。

8:京都は当初から、人工的である、一方都市として民間として民間人による自律発達のうごきを内包していたのである。

9:当初の人口は10万と推定せれている。

10:平安京が軌道にのった9世紀は、唐との交流がさかんで、唐風文化がさかれた。

11:中国の唐王朝がほろび、国交がたたえると日本化の時代がくる。(10世紀から11世紀まで)

12:その中心となったのが京都にすむ宮殿の貴族だった。

13:時代がすすむにつれてそれは封建領主制へと移行し、政治の実権はその担い手である武士へとうつる。

14:そのため、政治の中心は、時代によって京都と他の都市との間をゆれうごく。

第15課:漢字

1:約四000年前に漢民族は象形文字である漢字をつくりだした。

2:最も早い例は殷代に遺跡から大量に出土する卜占の甲骨文である。

3:二世紀頃から、口語体とまったくちがった語彙と語法をもつ文章語として発達をとげた漢文は東アジアの周辺諸民族へとひろがり、紳士の言語文章となって東アジアの共通メディアとして定着した。

4:漢文は公式文書にもちいれた。

5:五世紀に漢字と漢文は日本に朝鮮を通じて紹介さらたといわれた。

6:十世紀には言語体系のちがう日本の漢文のあつかい方が単語については漢語を外来語としてそのままとりいれるが、日本語に訳して読み方をかえてしまって、語順については数字と記号を書き入れて日本語に配列になおし、それに助詞などの原文にない言葉をつけくわえて、日本文として読みくだす方法をくふうされた日本人の漢字は一般にひろまった。

7:日本では学術用語やあたらしい概念を作り出すために漢語がつかわれる。

8:日本では漢語調の文語文もできた。

9:初期の漢文としては、鉄剣に象嵌された銘文や墓碑名などが数点しられており、八世紀には「古事記」「日本書記」の歴史書、各行政単位の経済、地理等の情報をかきしるした「風土記」が漢文を主体にかかれている。

10:十世紀以降は日本人のつくる漢文がだんだん日本的になっていった。

11:十三世紀には宋時代のあたらしい漢文が日本にはいり、五山文学という漢文を中心とした文芸がおっこた。(禅宗)

12:江戸幕府は儒教を重視し、孔子をまつる聖堂と学問所をおいた。

13:五世紀以来、近代になって日本人の知的情報源がヨーロッパ諸国の書籍にうつる

第21課:武士

1:もっとも根本的なものは古代から中世への変革であろう。

2:古い支配者をおしのけ、新しい時代をきりひらいていったのが武士であった。

3:7世紀に整備された日本の古代律令制は9世紀にははやくもゆきづまりをみせ、地方では新しい勢力の台頭ががじまっていた。

4:自衛と攻撃のためにみずから武力をたくわえたものが武士として歴史の表無台に登場するのである。

5:地方で力をたくわえた武士は11世紀ごろから中央にさかんに進出しはじめた。

6:最初、「さむらい」ということばは主君の側近に伺候する従者という意味であった。

7:12世紀末、当時もっとも傑出した武士の棟梁であたみのもとが東国の鎌倉の地に新政権をうちたて、武士の政権がはじめて誕生した。

8:武士の発生と成長が武力による自己防御である以上、大小の武士はたがいに結束して集団化しようとした。

9:この御恩と奉公を基盤とした主従関係はヨーロッパの中世社会の領主と騎士のあいだにみられた、保護と忠誠の相互契約にもとづく、主従関係にきわめてにちかいものであた。

10:自己の名誉や信義をおもんじ、同僚はもちろん、敵に対してさえもその名誉を尊重し礼遇する精神をうんだ。

11:日本では武士のもとで封建制が発達した。

12:日本は7世紀に中国の制度を手本にして、中央集権的な古代国家を完成させた。

13:日本が中国からはっきりわかれ独自の道をあゆみはじめたことはちょうどゲルマン民族を古代ローマ世界から独立し、ヨーロッパ中世世界を形成した歴史的発展過程を平行な関係になる。

第23課:城

1:城は外敵から身をまもるための構築物である。

2:日本とヨーロッパの城を防御装置から比較すると、城郭の周囲に何重にも堀と城壁をめぐらせ、要所に櫓を配置し、中に天守をかまえる構造はまったく共通している。

3:第一の違い店は大砲の攻撃に対する備えである。第一に考えるべきさまざまな原則のある城を知らぬまま建造された。

4:第二の違い点は城下町に対する考え方である。

5:ヨーロッパでは町は市城壁によってかこまれ、ここに商人、職人そして農民が居住する。

6:日本の城はヨーロッパでいう城郭部分のみである。

7:中世の城郭は山上または山の中腹にきずかれた。これは周囲の地形をたくみに利用して防御するためで、きわめて軍事本位に考えられたものであった。

8:16世紀後半期になると、城は軍事的な機能に政治的な役わりをくわえてつまり一国を支配する拠点として機能が重視されるようになった。

9:1579年にもったも時期ははやいのは安土城天守である。

10:五層の屋根、壁面に金箔はほどこされ、その下方は朱塗りで金龍がかざられていたと「信長公記」は伝えている。

11:白鷺の姿にたとえられた姫路城天守のうつくしい造形をみると政治効課が重視されていたここがよくうかがえる。

12:それはあたかもヨーロッパの城が城館への発展をとげると軌をおなじくしていたといえよう。

13:すでにとおいむかしに天守が失われていても、もとあった石垣の上に鉄筋コンクリートの現代工法で再建したり、はなはだしい場合には、歴史上はなにもなかったところに、あたらしい観光城をきずいたりする。

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